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避けられぬものは「死」、そして「出家」への道(無常観)
人間の一つの願望である「不老長寿」
これは、遙か昔、人間が誕生した時からの永遠の課題なのかもしれません。
そして、多くの権力者がそれにトライしましたが、成功した者はいなかった訳です。
避けられぬものは「老い」そしてその結末である「死」であった訳です
「死」が避けられぬものであった事を悟った時(突きつけられた時)、人々はどうするか?
「現世」が苦しければ、少なくとも「来世」では幸せになる様に
「現世」が幸せであれば、「来世」でも幸せが維持されます様に
その人、その人の実情に合わせて考え方は別であったでしょうが、「来世」で「幸せに」と言う事は同じであったでしょう。
とは言え、来世がどの様なものか?
それを具体的に説明をする事は難しかったでしょう。
なぜならば、「来世」に行って「現世」に帰って来た者がいないから
ですから、見た事も無い来世に対して、人々はある意味自由な希望や想像を盛り込んでいくわけです。
それは、庶民の願いから、上皇・貴族などの有力者に至るまで、多岐に亘って行く事になりますが
上皇や貴族などの有力者は、単なる希望や想像に止まらず現実世界の中で来世に繋がる理想像を作り上げようとしました。
これが、有名な「法成寺(ほうじょうじ:藤原道長)」「平等院(びょうどういん:藤原頼道)」「六勝寺(ろくしょうじ:白河上皇)」「中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう:奥州藤原氏)」等々 様々な日本を代表する建築物がそれに当たります。
また、これらの大きな特徴としては「阿弥陀如来」を中心とした”浄土教”であった事でしょう。
”浄土教”は、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱える事で娯楽浄土に行けると言う教えでもありますが、その簡単明快な理屈から 当時の貴族階級を中心に信仰された有力な宗教でもありました。
他方、同じく来世には極楽に行くとしても、上皇・貴族の様にある種力を現実で誇示する形での在り方には疑問を持った人々もおりました。
当時の知識階級だった「鴨長明」「吉田兼好」と言った方々ですが、彼らの中に流れるのは「無常観」
いずれは、来世に行く事は逃れられないのだから現実世界を派手に生きてどうするのか?と言う考え方でもありますが、
これは、上皇・貴族と言った人間達との立場の違いと言う事もあったでしょうが、宮仕えをする中での様々な矛盾や窮屈さ、度重なる天変地異や社会秩序の変化などによって 「昨日のモノが今日は無くなる」「今日のモノが明日は無くなる」などと言う目まぐるしい変化について行く事よりも、己自身の世界観をしっかりと持って世の中にただ流されるのは 止めましょうと言う事が根底にあったかと思われます。
ただ、なにもせず、「死ぬ時」を迎えたならば自動的に「浄土に行ける」
そんなものは無いと言う事を、当然この二人は理解をしていたでしょう。
「生」に執着をしているからこそ、(望むべく理想があって)今の自分の現状が嫌で「遁世(世捨て人になる)」したと言う事も一理あるかと思いますが、 (鴨長明も吉田兼好も有力者と交際もあり、ある意味、完全に世捨て人と言う訳でもない) 彼らの書いてある「方丈記」や「徒然草」を見る限りは、出来る限り客観的な立場を取ろうと言う「修業」をしているかの様に映る部分でもあります。
さて?
有力者であれ、隠遁者であれ、”何もせず”に「輝く来世」に赴けると言う理解は無かったようで (要はそのための何か努力をしていると言う事が有力者は寺を建てる事であったり、隠遁者は隠遁して生活をすると言う事だったりな訳ですが)、 かの”光源氏”の例もある様に、「来世」に行くための準備をする(「心の準備」「体の準備」「そのほかの準備」)ために”出家”します。
「源氏物語」では、最愛の妻である紫の上の死後、源氏は無常観を覚え、その地位を捨てて出家する事となります。
この事は、”光源氏”の様な存在(ある意味、創作上・創造上の人物であり、全てにおいて優れている”チートキャラ”であるにも関わらず)ですら、 「老い」「死」と言う流れからは脱却を出来ないし、栄耀栄華を極め「無常観」とは無縁であるはずの光源氏でさへも最終的には「出家」へと向かう。
”人間”である事の「定め」を最後に持ってくることで「源氏物語」は前半のフィナーレを迎える訳ですが、作者である「紫式部」は、自分の作品の愛好者である”藤原道長”に 対しても、同じように「定め」からは逃れられませんと言う事をヤンワリと言いたかったのか?
その真意は分かりませんが、藤原道長が晩年は法成寺に引退して極楽浄土を願いつつ亡くなったと言うのを見ると、あながち影響が無かった訳ではないのでしょう。
(「源氏物語」で光源氏が死ぬ場面はありませんが、「幻:41番目(41帖)」の中で「出家」→「死」を想起させる形になっている。)
(光源氏が出家したであろう事をベースにした「雲隠六帖」と言う作品が、2008年センター追試験で出題されています。)
とはいえ、「死後」の世界があって始めての「来世への夢」でもあろうし「現世への無常観」でもあろうかと思いますが、 それほどまでに”古文の世界”では「死」が身近であったと言う事が大きかったのでしょう。
そこは、今の様な「長寿社会」とはまた違った価値観の世界でもあった訳です。