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藤原道長のサロン(「紫式部」他女房文学について)




      平安時代中期における貴族社会の頂点に立った藤原道長のサロン。

      栄華を極めた貴族社会の頂点に立った藤原道長のサロンには、当然ながら数多くの才能あふれる人物が集まりました。
      これは、天皇に嫁いだ娘が産んだ子が天皇になることで朝廷の実権を握る摂関政治ゆえに、天皇のお后となる人物の周りに優秀な人物が仕えることになったためで、その女性達(女房と呼ばれる)による文化・文学が花開いたことで、日本の文学史に豊かな財産を残してくれたのでした。

      道長のサロン(道長の娘である【中宮彰子】のサロン)には、「源氏物語」で有名な紫式部、道長から”浮かれ女”とまで言われ、紫式部にも”素行に感心できない”と日記にもかかれた 色恋沙汰では当代随一の和泉式部、そしてその娘で「大江山」の故事で名を馳せた小式部内侍、【藤原道長】を礼賛する作品である「栄花物語(えいがものがたり)」を記したとされる赤染衛門、中宮彰子のお傍仕えで頭角を表し歌人として名を馳せた伊勢大輔などが集まり、当時の文化の最先端を走っていたのでした。

      もちろん、このサロンの代表格は道長のサロンだけでは無く、道長のライバルともされる、兄、藤原道隆(その息子の伊周・降家兄弟)の娘の中宮定子のサロンに集った清少納言も「枕草子」で定子のサロンの華やかさを描写していますが、道隆の死と伊周の失脚の後はサロンも輝きを失っていきます。

      また、直接的には天皇のお后という立場ではありませんが、道長の父である藤原兼家の妻である藤原倫寧の娘(道綱の母)は、夫である兼家との波乱に満ちた生活を赤裸々に綴った「蜻蛉日記」を著し、彼女の妹である藤原倫寧の女(「ふじわらともやすのむすめ」と読み、藤原倫寧の娘との意味をなす)の娘である菅原孝標の女は、関東地方までの紀行文である「更級日記」や、源氏物語にインスパイアーされたと言われる「夜半の目覚め」「浜松中納言物語」などを書いたとされる(「菅原」という苗字は、菅原道真の子孫でもある)。

      この様に、女性が中心になって花開いた平安中期の文学は、紀貫之が女もすなると言われるように国風文化と仮名文字が朝廷や有力貴族のサロンで熟成した結果の素晴らしい所産でもあったのです。