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紀貫之により開かれた日記文学(「土佐日記」「蜻蛉日記」「和泉式部日記」他)






        男もすなる日記というものを女のわたしもしてみんとてするなり

    これはかの有名な「土佐日記」の冒頭ですが(「すなる」は「する」の終止形「す」+「なり」で伝聞推定の「なり」、「するなり」は「する」の連体形+「なり」で断定の「なり」)
    当時は「日記」は男性が書くものという位置づけであったことを窺わせる重要な一文でもあります。
    この「土佐日記」の書かれた934年と言うのは、菅原道真による遣唐使の停止(894年)から40年後でもあり、それまでの「唐風」に基づいた「漢字(真名)」だけではなく「国風」の「仮名文字・カナ文字」が広く使われるようになって来たという事でもあったのでしょう。

    そこには

    漢字=男性
    仮名=女性

    という区分けがあったと思われますが、あえて、紀貫之が「女性である」として「日記」を「仮名文字」で書こうとしたのは、その区分を崩す画期的な試みであったと考えられるわけです。
    (これは、わざわざ日記の冒頭に「男のすなる」と「伝聞」を持って来て、次に「女のわたしも」「するなり」と「断定」を持って来ている点に実験的要素があったと考える事にもなる訳です)

    この「土佐日記」は、紀貫之が国司として赴任した土佐国からの京都へと還る際の記録ということになりますが、「日記」とはいうものの、その中見は純粋に事実を記録しただけのものではなく、様々な事実に対して自己の自由な心の動きを含めて書いてるところに従来の日記とは異なった「日記文学」と呼ばれる 新しいジャンルを確立したことに意義があると見るべきでしょう。
    (それゆえ、学校の教科書で「土佐日記」は取り上げられるのだということ)

    この紀貫之の試みは非常にインパクトをもたらして、「かな」を使う女性達に「日記(文学)」を書かせることになります。


    その壱:「蜻蛉日記」
    藤原道長の父である藤原兼家の妻である藤原倫寧の女(「むすめ」と読む)または右大将道綱の母(藤原道綱の母)による夫兼家との上手くいかない生活への嫉妬や嘆きなどを赤裸々に描いている。 また、この事から息子である藤原道綱(藤原道長と異母兄弟になる)への将来を生き甲斐とするようになっていった。
    初の女性による日記であり、その心理描写のありさまなどは「源氏物語」に影響を与えることにもなった。

    その弐:「和泉式部日記」
    藤原道長のサロンに属した女房の一人である和泉式部による日記。恋愛関係にあった兄宮が死んだ後の、彼の弟である敦道親王との熱烈な恋愛について書かれ、和歌の贈答、対話の描写なども詳しく書かれいてる。自身の事を「女」と三人称で書いている。

    その参:「紫式部日記」
    「源氏物語」の作者である紫式部による日記。中宮彰子の出産を始め、当時の宮中行事についても細かく触れている他、後半では、同時代の女房である清少納言(才走っている)和泉式部(和歌の才能はあるが軽薄である)に対する批評が見える点に特徴がある。

    その四:「更科日記」
    菅原道真の子孫である菅原考標の女による日記。少女時代から50歳近くまでの事を記している。最大の特徴は「夢」についての記述が多く、当時の世界観において「夢」と「現実」とが同じ位置にあることを示している。また、「源氏物語」に対する憧憬が強く「夜半の目覚め」「浜松中納言物語」の作者とも言われる。


    以上、平安中期の代表的な「日記」を挙げてみましたが、(年代はともかく)作者とどんな内容か位を覚える参考になれば幸いであります。