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講師研修に関する覚書:No.0 


      かつて還暦を超え、未だに2月の中学受験では開成中学の入試問題を解き、「いやぁ。年は取りたくない。時間内に終わらなかったよ」と平然と言ってのけ、本人は中学受験以外は本分では無いとしつつも引きこもり・不登校の中学生の心を開き難関校に合格させる等、その実力や手法のおかげで受験の困難な逆転劇を幾つも演じてきた御仁が居た。 本当に”老師”とでもいうべきその方は、筑駒で中学・高校を過ごし早稲田大学に入学の後には能の研究に没頭された御仁でもあられた。

      その様な方に新人研修・講師研修の事をお尋ねしたところ下さったのが以下のものである。


講師研修に関する覚書:No.1 基本概念


      講師は常に揺るぎない史観を内に持つように努めることで生徒の信頼を得、指導力を示さねばならない。それは生徒の知的好奇心を刺激し、結果として成績向上につながる。



講師研修に関する覚書:No.2 目標


      ○講師は社会的な存在としての個人である、との認識を有すること。
      ○講師は常に知的水準を高める努力を怠らぬこと。
      ○講師は生徒の自我の確立を補佐することで、生徒の内的動機による学習意欲を育てねばならぬ。
      ○講師は生徒に社会の中での存在意義を与えるためにも、教える人と教えられる人の関係を正常に保つべきで
       あることを認識し、それがいずれ生徒が社会的な存在でありうる事への自信となるよう、接すべきである。



講師研修に関する覚書:No.3 研修内容


      【1】 基本概念について講師と議論

      (1)講師の歴史観について語ってもらう。

         具体的には、歴史上尊敬する人物についてで等で良い。

           例)信長 → どこに指導力を感じるのか・真似したい所はどこか
                 ・「夢幻の如く」に何を感じるか。

      (2)○○(ここは各企業体や教室として)の見解を示す

         史観は各自の「哲学」となりうる。
         教える側も教えられる側も、年相応の「哲学」を持たねばならぬ。
         → 一例として、理念を形而上的に述べれば斯くのごとく。
         そして、講師がどの様な形で世に出ようとも、彼等の人間形成の役に立つはず、との確信を示す。


      【2】 知的水準を高めることを、生徒指導に活かす方法

      (例えば、一見雑談と生徒が思う話を、教養をもたらすことに変える力を養うために)
      学習意欲の低い生徒にとって授業内での時間(○○分)は苦痛である。この時、一般的に講師は雑談をするのだが、それは生徒の歓心をかう媚びた手段となってはならない。 その時にこそ、生徒の人間性を高める努力をすべきとの考えを常に持つ事である。

      <その研修方法として>

      (例1)
      講師にベルリンにおけるケネディの演説を予め読ませて、生徒にどの様に語れるかを観る。
      (本来は、講師自らがテーマを数十種蓄えておくべきなのだが、研修として演説内容を与えておく。)

      (例2)
      「雨ニモマケズ」を上記と同様に観る。これは雑談を通して賢治の生き方についても語ることになり、講師の生き方・考え方を生徒に伝え、又講師自身の哲学の質を高めることになる。
      (無論、そうした詩・警句を持っているならそれを用いて語ってもらってもよい。)


      <理系の講師の質を問う>

      ○帰納法を生徒(中2・中3)に教えるという設定で説明をしてもらう。
      ○又は背理法を生徒(小6・中1)に教えるという設定で説明をしてもらう。
      ○受験に関係の無い領域でも脳に大切なこととして与えられるかを問う。
      (例えば、√2は無理数である証明)

      <文系の講師の質を問う(特に英語の講師へ)>

      ○「象は鼻が長い」を文法的に説明してもらう。
      ○好きな芸術(小説・映画・演劇等)について語ってもらう。
      (「オイディプス」「ソクラテスの弁明」「風姿花伝」等の古典が望ましい。)


      【3】 担当教目における授業訓練

      ①自己紹介をしてもらう。

      自己紹介の中で鼻濁音が使えているかどうか。アクセントにメリハリが有るか。品格が自ずと出るように注意して語られているか。「ら」抜き言葉を気にもせずに用いているか。等々。
      (なお、地方出身者の場合はその方言の良さを上手く活かせているか。)

      ②服装について。

      服装は講師らしい地味で清潔なものである事は当然。就職用の黒又はそれに近い色のスーツが良いのだが、一年中同じ服というのは、感性の欠如を生徒に示すだけなのでやめる。
      (例:
      春夏はライトグレーのスーツ、紺のブレザー等。秋冬はグレー、茶色等2・3着、ブラウス、シャツは地味なスタイル、ワイシャツは白を基準にブルー、グレー等。ネクタイも合わせて3・4本。靴は黒と茶の1足ずつは揃えておきたい。)
      根底としては、人が無造作に他人を選ぶ時の事を考えるべきである。①や②がきちんとしていない者に頼るまい。生徒とて同じことである。外見は重要な意味を持つ。内面が顕在化したものと言っても過言ではあるまい。内なるものが外へ、教えるとはそういうことだ。

      ③講師同士の会話や控室での過ごし方。

      講師の意識向上という点では、色々な場でそれを涵養して行く方向性が望ましい。出来る限り科目の学習に費やしたい。とは言っても、当然その日の予習ということではない。
      (例)
      ○I will be glad when you are dead,you rascal you. を何と訳すか文系で話し合う。
      ○新刊の書評について 文系・理系共に話し合う。
      ○東大他旧帝大・医学部、開成高校・中学などの上位校の問題を解き、内容の比較、指導への応用方法。


      以上の事を実践するには日常の努力が不可欠である。例えば、本を買う、話し言葉の語感を磨く、立ち居振る舞いを鍛錬するなどは、それなりに金銭のかかることであろう。いかし、為に○○は他よりも(他の職種)高い時給を払っていると考えて貰いたい。


      【4】 細かな技術論に関しての実習

      注意すべき次の点を先に伝えてからの実習が大事である。

      ①誤字・脱字・筆順(特に乱れている)→板書する時(ペンの色の使い方等を含む図柄)
      ②授業での雰囲気→声量・自信を与える指示・時としては厳しさ。
      ③構成→指導すべき内容をテキスト通りになぞるのではなく、生徒によって再構成する。(準備の大切さ)
      ④就業上の規則等


      【5】 最終判定

      以上、研修をするには多くの時間を割き、担当者にとっては負担となる面もあろうが、楽しい時でもあるはずだ。従って、その成果を最終チェックするなどは出来ようはずもない。(自己評価という意味合いもあるので)が、しかしそうは言っても一定の基準を設け、それに沿って判定し、研修を終了すべきこともまた道理である。そのためには統一的な指標が必要となるので、チェックシートを作成して、必要な基準の八割を充たせば終了として良いだろう。



講師研修に関する覚書:No.4 終章


      以上管見ではあるが、○○の理念を縦軸にとっての研修方法を記した。その概念から具体例迄を簡単にまとめたものだ。細かな手段は多々あるものの、その一つ一つをここに述べる必要はあるまいと思われる。(機会があれば書くつもりだが)数例を揚げるにとどめた。が、この研修が世に問われる様で無くてはならないとの思いも込めたつもりだ。○○の発展を願ってならない。


      -了-



講師研修に関する覚書:No.5 


      流石に、”能”を研究されていただけに、随所に風姿花伝的な要素を感じた。それもありタイトルを「教師花伝」とさせて頂くことにした。

      内容の一つに「古典芸術」についてという部分があったが、これこそまさに教える側が心しなくてはならない事の一つではあろう。もっとも、講師と言っても色々な立場がある。大学生になり立ての学生講師から社会人講師まで幅広く存在するのがこの世界でもある。 また講師として求められることも様々であろう。
      しかしながらこの職業(立場)が、相手側(生徒・保護者)から観られているという視点に立つならば、そこにおける講師は、授業という演目に於ける役者という事になる。古い世代の方にはそれをして黒板芸者などと言われる方もあるが、その表現の当否は別にして、自己の中にある知識・経験を伝えるのにどの様に振舞うのかという点を考えるならば、持っておくべき大きな要素ではあると思う。

      とは言え、この様な哲学に裏打ちされた研修素案は、自分の様に徒に馬齢を重ね、老師の年齢にだけは近づけば、その価値がどれほどのものか心に滲み出てくるのだが、これを前提として学生講師の研修にあてるのは難しい面も多いだろう。
      無論、この手の趣旨が当てはまる素質の講師には、そのまま援用しても良いと思うのだが、やはり伝えるという事を本質・根底にするものであるならば、現代に仮借した漫画・アニメ・ゲーム・映画等のものでも、古典芸術に匹敵する様な奥深さを持つのであれば、それに代替しても良いと思われる。