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妖怪のせい!?(百鬼夜行)


    今の時代を”科学万能の時代”とするならば、古文の時代は”妖怪万能の時代”とでも言い表す事が出来るでしょうか。

    一時「妖怪」を「時計」で呼び出すと言うオハナシが大ブレイクを致しましたが、そんな中で九尾の狐(玉藻の前)や狛犬の兄弟など、改めて日本の伝統(?)に脚光が当たったのは 一つの僥倖だったと言えるかも知れません。

    妖怪は、この作品で頻繁に出てきたように、「人に憑りつく」(憑依する)ことで、憑りつかれた側の人間の体調やメンタルを始め運気の様なものまでも変化させてしまうのが 特徴で(特徴だと信じられており)、”病気”の様なものまでも「病は気から」と言う言葉が示すように、何か人間の調子を狂わせる存在のせいでなっていると考えられていました。
    ですので、「病気」や「不運続き」「何か気持ちが優れない」と言う時には、”憑りついたモノ”を何とかすれば回復すると言う事になり、 そのためのお祓いやマジナイと言ったものを、当時の天皇から貴族の様な身分から庶民に至るまで真剣に向かい合ったのでした。

    また、これらの妖怪は日本伝統の”異形のモノたち”だけではなく、この世に含み(想い・恨みなど)を持って亡くなった人間も”生霊(いきりょう)”になって出没するようになって、 その無念の想いを遂げると言う事も信じられていました。
    その代表的な例が「菅原道真」と言う事になります。
    「菅原道真」の事は多くの方がご存じかと思いますが、宇多天皇の時の藤原基経を巡る「阿衡紛議事件」をきっかけに才覚を認められ順調に出世を重ねますが(最終的に右大臣)、 宇多天皇の後を継いだ醍醐天皇の時に、(藤原基経の息子である左大臣の藤原時平の計略により)謀反の疑いをかけられ大宰府に左遷をされます。
    その後、道真は許される事なく大宰府の地で亡くなりますが、亡くなった数年後に道真左遷の首謀者である藤原時平が 突如死亡したのを始め、京都の朝廷のある清涼殿(そして天皇の日常生活の場である紫宸殿)に雷が落ち、道真失脚に関わった公卿が死亡すると言う 奇怪な事件が発生するに及んで、これは道真の怨霊であるとして、道真の怒りを収めるために道真の名誉の回復が行われる事になりました。
    (当の醍醐天皇も目の前で多くの公卿が怪死した事を受け、衝撃の余り3か月後に崩御:清涼殿落雷事件)
    (それ以降、道真と「雷」との結びつきが言われる様になる)

    この時に、修業を積んだ者による法力によって道真の霊を慰める(=怒りを解く)事が行われましたが、 霊的なモノや妖怪の様なモノに対しては、特効薬的な何かがあった訳では無く、 ただ、ひたすらに意思の疎通を図ってなだめると言う事しか出来なかったと言う点からも、これらの霊や妖怪が人間の力を大きく超えたものを持った存在として捉えられていたと 言う事が分かってきます。
    (現代ならさしずめ、「存在する」と言う事が証明できないのだから「存在しない」などとして一刀両断されるところでしょう)

    さて、その様な”超自然的・超人間的な力”を有する妖怪や霊の存在達ですが、彼らが行列をなして徘徊する事を「百鬼夜行(ひゃっきやこう)」と言います。
    妖怪や幽霊が目の前を徘徊するだけでも恐ろしいですが、 この百鬼夜行に遭遇すると死んでしまうために、百鬼夜行が生じる日には外出はしなかったとされていましたが、それでも妖怪や幽霊が突如として目の前に現れたと言う事が 「宇治拾遺物語」や「今昔物語」「大鏡」などに記載されています。
    藤原氏を対象にした話でもあるので、権力独占を図る藤原氏に対する貴族達の中にある一つの集団心理が「百鬼夜行」と言う違った形で具現化したのか? どうかは定かではありませんが、
    確かに妖怪や幽霊は、現代とは違って人々の心の中にしっかりとした地位を築いていた事は間違いがないようです。