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古文を勉強しないで受けれる大学がありますか?


    (ある意味、先に触れた「古典文法を勉強しないで大学に合格する事ができますか?」と言う質問と似たものですが)

    多様な人材を大学に迎えたいと言う方針もあって、大学入試の科目も様々になっています。
    そういう中で、「国語」と言う科目にはなっているものの「古文」や「漢文」が大学も当然にあります。

    有名どころでは上智大学の一部の学科では古文が出題されません。

    これを聞いてやった!!と思うのは早計で
    なぜならば、古文が無い代わりに「現代文」が3問出題される事になりますが、この「現代文」に明治・大正期の「擬古文」「文語文」と言う形で、 古文と言うよりは漢文に近い読みでの文章が出題をされています。
    (同様の出題の流れとしては、早稲田や中央といった有名どころも該当しますが、そもそもこの2つの大学は古文を排除していない)

    では、この「擬古文」「文語文」を読むのに(理解するのに)難しいのか?(要するに、古文や漢文を勉強しないでいけるのか)と言われれば 、ギリギリ可能と言う事になるでしょうか。

    単純に、文章の中身だけを読み取れる人には気にならない程度の文章であったりもするので、(「蓋し(けだし)」とか「如何(いかん)」とかの意味を深く追求しないと 言うのであれば、古文(と言うより漢文)をしないでも受験は可能でしょう。
    しかし、一応”天下の上智”ですから、それで正解に至るのかどうか?は、実際に入試問題を読んで確認をしてから決めた方が良いかと思います。

    むしろ、この手の「擬古文」や「文語文」においては古典や漢文の文法や知識と言うよりかは、「言葉」「単語」そのものが問題になる場合が多いかと思います。
    ですから、どちらかと言うと「漢字」の量を増やすと言う方向性が重要になってくるかもしれません。

    何故に、この手の問題を上智が出題するのか?と言う点を考えると、
    「イエズス会」を母体とする上智大学の使命を歴史的に考えると、かのフランシスコ=ザビエルを始めとする宣教師(伴天連)の現地でのスムーズな布教を旨とする訳ですから、 いかに現地の言葉や習俗に馴染むのか?と言う事が問題になった訳です(所謂、イエズス会の「適応主義」。これは清朝における「典礼問題」にも通じるところ)。 ですから、明治・大正期に西洋の知識や学問を日本に輸入して根付かせるためにどうするのか、 と言う事で「漢字」を媒介にして理解を進めると言う手法をとった明治・大正期の「政治」「経済」「文化」等々の先駆者の在り方について評価をしている。
    すなわち、「擬古文」「文語文」と言うものが一つの「道具」であったと言う事を認識してほしい、と言うところに主眼が置かれていると思われる訳です。

    上智だから「語学の学校」と言うイメージが先行するのは確かですが、その奥深いところにはしっかりとした「理念」が横たわっていると言う事を理解する必要があるでしょう。