このページを Google Bookmarks に追加

逐語訳(ちくごやく)とはなんでしょうか?


      逐語訳とは、言葉どおり「逐一」「その語」を「訳す」
      の”略称?”とでも言うべきものです。

      それに対するのが「意訳」
      「意訳」は、一言一言に拘らずに、文章全体の意味から訳していく事を指します。

      英語に直すと、「逐語訳」が”word for word translation”
      「意訳」が”free translation”となりますから、英語の世界においても「逐語訳(直訳と言うでしょうが)」と「意訳」が存在しております。

      さて、古典を勉強し始めた最初の方は「単語」や「助動詞」なども分からない事が多く、何となく文章の意味(全体の流れ)は分かるのだけれども 正確にその部分を訳せない

      なので、大雑把に訳してしまうと言う事があります。

      これは、これで一つの勉強方法(勉強に入って行く方法)かとは思いますが、これで「自分は意味が分かるから古文は訳せないけど大丈夫」などと言う ”変な自信”を持つようになってしまう(ひいては、古文をやらない口実にする)のは問題が多いと言えます。

      確かに、国公立試験の2次試験で「古文」が出題されない場合には、イチイチ単語を正確に訳せなくても良いと言う風に流れがちですが
      (2020年以降はそうはイカナイかと)
      その前段階にあるセンター試験(2020年以降は何と呼称されるかは知らないが)において選択肢を吟味する上で、本文中の訳がしっかりと出来ないで正解する事は難しいと 思います。

      ましてや、2次試験においては「和訳しなさい」「説明しなさい」が中心の記述式のテストになるわけですから、 全体的な意味が分かったとしても該当する部分の「単語」や「助動詞」を”ある程度”正確に訳し分けが出来なければ「減点」と言う形でタチマチ点数が失われていきます。

      ですから、その様な事が無いように日々の努力としての「逐語訳」が求められる、と。

      もちろん、これは国公立向けで私立には関係ないよね?と思うのは、ある意味妥当ですが、妥当ではありません。

      確かに、私立は国公立ほどは記述の部分は少ないですが、全く訳しなさいと言う事が出ない訳ではないし、
      むしろ、選択肢中心の場合に和訳をわざわざさせると言うのは、そこの部分に間違いやすいポイントが存在すると言う事でもあるので、 侮る事は止めた方が無難でしょう。
      だからと言って、国公立の受験生と同じように「古文を逐語訳しろ」とは言いません。
      「逐語訳」をする事によって、文章全体の意味と個別の部分との兼ね合いから、より良く文章の中身が理解できる事は間違いないですが、 それをする必要があるかどうかは、自分が受験する大学の入試問題の出題傾向によると。
      私立の場合には、どうしても選択肢での絞り方や空欄の補充に力点を置かざるを得ないですから、文章全体との相互関係での単語の力点の差などによる和訳よりも、 そこの空欄に何を埋めるか? 選択肢をどの様に切っていくか?と言う訓練を積む方が実践的である場合も多いからです。
      しかし、2020年に向けての記述重視の流れを考えると、古文の文書を逐語訳すると言うよりは、 解答に載せられている「日本語訳」をしっかりと読み込む事に力を注いだ方が良いでしょう。
      「書くこと」には及ばないかも知れませんが「読み込む(観る)こと」で、古文の文章の訳し方や考え方についての色々を理解すると言う事は可能ですし、 何より逐語訳するよりも時間がかからないと言うメリットはあるからです。

      「逐語訳」まで踏み込むのかどうか?それは古文の学習においてはかなり大きな決断になりますが、 (国公立受験の人はするべきでしょう)私立受験の人は、自己の処理能力や勉強の進捗具合を見て判断をしてください。

      (ちなみに、東大受験生崩れを狙っている中央大学を受験する人は逐語訳をする方向が良い気はしますし、 早稲田大学に関しては本文の難解さを考えると逐語訳で古文自体の実力を上げていかないと選択肢すら選べない可能性もあります)