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旅行は命がけ?


      昔の旅行は、今の様に楽しさを連想させるものでは無く、ひとたび間違うと”死”に直結する厳しいものでした。

      旅について扱った古文の素材としては「土佐日記」が直ぐにあがるでしょう。

      「旅立ち」と言うタイトルがある様に、紀貫之が土佐から京都に帰る際の出来事に触れた部分です。
      ご記憶の方も多いとは思いますが、「むまのはなむけす」とか「あざりあえり」等と良く有りがちな歓送迎会のイメージを抱いてしまいますが、
      実情はなかなかどうして、丁度、紀貫之が京都に帰ろうとする頃は、承平・天慶の乱と言われる様に瀬戸内海では藤原純友が海賊として名を馳せておりました。
      当然、貫之一行もその事を聞いていた筈なので、土佐から出て海上で海賊に襲われたらどうしよう?と言う恐れは常に抱いていたはずです。
      そんな事情や背景もあり、「宴会をして(むまのはなむけす)」「酔い散らかすまで飲み合った」と言う事になるわけです。
      まさに、今生の別れを覚悟しての宴会だったのでしょう。

      さて、船旅と言えば、「更級日記」にも船旅の様子が出てきます。こちらも瀬戸内海のお話ですが、丁度嵐に会いそうになって近くの浜でやり過ごす際の事が 書かれていますが、浜辺の人に間違って進んでいたら船ごと木っ端みじんになったでしょうと言われて驚いたと言う話が出てきます。

      そして、もう一つ、くどいですが、船旅を扱ったものとして「常尋阿闍梨日記」を挙げておきます(東大の入試に出たので:2000年文理共通)
      中国に修業の為に旅立つ息子である常尋を思って母親が書いた日記ですが、 (ちょうど、東大で出題された部分は常尋が出航するシーンで)危険な船旅を冒してまで中国(北宋)に渡る息子をどうして引き止めなかったのかと言う重い想いを綴った作品に あいかわらずの船旅の危険性を感じ取る部分であります。
      (この場合は海外渡航なので、遣唐使や鑑真の来日の際の危険性を想起させる訳ですね)

      また、海路では無くて陸路の話(危険性)は2005年のセンター本試験の「日光山縁起」などにも出題されていますが (もちろん、他にも色々ありますが)、旅に出る理由が何であれ(仕事であれ、痴情のもつれであれ)、京都から地方へ、住み慣れた地方から京都へ(九州へ)など、 いずれも心理的・肉体的な負担を強いるもので今の旅行に伴うワクワク感とは無縁な事を知っておくと良いでしょう。
      (そういう意味では、「伊勢物語」の「東下り」の部分は旅の危険と言うよりは傷心の自分の話中心なので、異色と言えば異色ですが、在原業平だからと言えば在原業平なのでと)

      もっとも、時代が下ると旅も少々様変わりしてきます。鎌倉時代の「十六夜日記(いざよいにっき)」を著した阿仏尼は、 京都から鎌倉まで土地相続を巡る訴訟のために赴きますが、道中の風情に触れたり和歌を詠んだりとなかなか文化的趣きを感じさせる内容ですが、 道中の危険自体はあったものの、源平争乱後の鎌倉幕府の統治がそこそこ上手くいっていた事の証左とでも言えましょうか。

      さて、かなり時代が下って江戸時代になると、かの有名な「奥の細道」が登場します。この中で芭蕉は「古人の様に旅に死ぬのが理想」などと言っていますが、これは願望と共に 旅行自体もまだまだ危険を伴うものだったと言う事でしょう。
      (この「奥の細道」に触発されてか、小林一茶も「おらが春」で東北(みちのく)への行脚をして芭蕉と同じように「白河の関を超えたので危険」と言う事を書いている)
      他に江戸時代のものとして(東大の入試:2004年文理共通や中央大学の入試)に出題された「庚子道の記」がありますが、これは尾張名古屋藩に勤めていた東京出身の女性の里帰りの道中記に なりますが、結構淡々として東海道を進んでいく感じがいかにもビジネスライクな感じで”ある種の面白み”を覚えますが、 この時代になると女性を独りで藩の用事で行き来させるくらい平和な世の中だったんだなと思ったりもします(もちろん、危険は危険で存在したでしょう)。
      そして、「旅」と言うものに、今の娯楽性や物見遊山的な要素が加わったのは同じく江戸時代ですが、1998年のセンター試験本試験には「西鶴名残の友」から、俳諧のための旅と言う ちょっと変わった文章が出ていました(今の過去問だと入手が難しいかな?)

      と、時代を経て「旅」の概念や位置づけも変わって来ていますが、「旅」=「非日常」と言う視点は古文でも現代文でも使える視点なので、頭の片隅にでも入れておいてください。