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人々の行動を左右したのは占い・暦・陰陽道



      古文の時代において、人々の心の中に「妖怪」や「幽霊」の占める割合が大きいと言う事はお話しましたが、 その様な時代において、大きな影響力を持ったのは「占い」や「暦」と言った(今で言うところの)オカルトチックなものでした。

      もちろん、「占い」や「暦」と言うのは、それまでの経験則だけでは無く、数字的な計算に裏付けられたモノでもあるので、 「妖怪」や「幽霊」の様に実体がわからないがために想像が独り歩きすると言うものではないけれども、何か窺い知れない不思議さが潜んでいるものでした。

      今のカレンダーやスケジュールと言ったものは、自分と他者との予定がすり合わされたものであって (無論、相手との力関係によっては自分の都合では無くて相手の都合優先になるけれども)、ある意味、自分の意思で予定を決めていくと言う部分があります。
      しかし、古文の時代の「暦」はある意味絶対的な部分があって、「この日に寝ると寿命が縮みますよ」(庚申の夜:こうしんのよる)とか、 「この日にこの方角に行くと災難に会いますから別の方向から行ってください」(方違え:かたたがへ)とか、 「この時期は神様が来るのでこれとこれはしてはいけません」(物忌み:ものいみ)とか、 ある意味選択権はあるようで無い内容のモノが起きるのが”その日”と決められていたわけです。(そして、前回の「百鬼夜行」も)
      これで、その日に敢えて暦で定められていた事を破るような行為をする人は殆どいなかったでしょう。
      今のご時世であっても、戯れにその様な事を言われたら、多少は気になって自分の行動を気をつける人は多いかと思います。
      事実、天皇・貴族を始めとして皆、暦に忠実に従って生活を営んでおりました。 (庚申待については「枕草子」:95段や、方違えも「枕草子」:13段に見える)

      さて、もう一方の「占い」ですが、これは今では個人の恋愛や金銭運などが中心で雑誌などを見ると占いの特集などがなされているのを良く目にしますが、 それだけ、この不確かな世の中において何かに標(しるべ)を求めている事が浮き彫りになりますが、今よりももっと不安定な時代だった過去においては、 「占い」は単に個人的な事だけにとどまらず、大きく”国家”のあるべき方向などについても対象になっておりました。

      「源氏物語」で光源氏の父親である桐壺帝が、たまたま日本に来ていた「高麗の人相見」に息子の将来を占わせたところ(天皇の地位をどうするかと言う事は、 当時はまさに国家的な案件でもあった訳です)、 「帝位に就く器だとしても、帝位に就けば国が乱れる」と言う占いの結果を聞いて「源氏の姓を賜ひ臣下にする」と言うくだりが出てきます。
      また、「夢」じたいも占いの対象として、その人やその人に関係のある人達の運命に関わるものとして重要視されていました。

      そんな絶大な影響力を持った「暦」と「占い」ですが、この”業務”を独占していたのが「陰陽寮(おんみょうりょう)」、そしてここで実際に「暦」や「占い」をしていたのが 「陰陽師(おんみょうじ・おんようじ)」と呼ばれる人達です。

      ”安倍晴明(あべのせいめい)”や”蘆屋道満(あしやどうまん)”と言った人達が有名ですが、 エピソードとしての彼らの不思議な能力はともかくとして(「今昔物語」「宇治拾遺物語」「大鏡」等で触れられている) 、役所や役人として国家的な機能の一部を担っていたと言う点は、今の感覚からすると大きく違うところなのかもしれません。

      人々の日々の生活から国家的な話まで、陰陽師が関わる話は多岐に上ったと思われますが、それに対して「反対」とも「まやかし」とも抗議が出る事も無く人々が従っていたと言う点を 、近代科学が及ばない時期の単なる「迷信」と捉えるか、それにより「心の平穏」を得たと見るのか、なかなかに難しいものですが、古文特有の世界観として押さえておいて頂きたいとおもうところです。


      下の図は、「方違え」を逆手にとって蜻蛉日記の作者宅を訪問しないで別の女性のところに行った藤原兼家の「方違え」

      ①の方角に行くと【凶】なので、朝廷に行くのに③を通って行くという理屈(③には他の女性宅がある)。