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”貴族の仕事”



      今の時代も、昔の時代も偉い人は自分で何かをすると言う事は極力限られておりました。
      それは、汚いことはしないと言う事が大前提にあった部分でもありますが(孔子の「男子厨房に入らず」もそう言う文脈でしょう) 社会が安定化してくると、儀式的・形式的な事が増えて自ら自由にする事が難しくなった事の裏返しでもあります。 (もっと穿った見方をすれば、偉い人に責任が及ぶのを回避していたとも考えられるところw)

      そんな訳で、当時の偉い人がする事は非常に限定されてきます。

      それが、古文のテストにどうした(?)と言う事になりそうなので、結論を急ぎますが

      「敬語」

      要するに、「敬語」の判断をする際に、「その行為」を敬語として判断して良いの?と言う部分(いわゆる識別と言うやつですな)に繋がってきます。

      「徒然草 五十一段 大井の土民に仰せて」の中に

      大井の土民に仰せて、水車を造らせられけり。

      と言う部分が出てきます。「仰せ(て)」は尊敬語で良いでしょうが「造らられ」の部分は??と。

      この「せ」を尊敬語(尊敬の助動詞)と考えるのか?

      あるいは、使役(の助動詞)と考えるのか?

      これを自分で造った(一応、この部分の主語は後嵯峨院とされていますが)と考えれば、「尊敬語」

      誰かに造らせたと考えれば「使役」と

      当然、後嵯峨院と言う当時のVIP中のVIPが自分で水車を造るなどと言う事はありません。
      フランス革命で死んだルイ16世みたいに”自分で鍵をいじるのが好き”な人であれば別ですが、偉い人が泥で汚れる様な(汗をかくような)大仕事を自らする訳はないのです。

      ですから、水車造りは誰かに命じてやらせた筈なので、ここの「造らられ」の「せ」は「使役の助動詞の未然形」となる訳です。
      (プラス、「られ」を尊敬ではなく、受け身とする事は可能か?と言う事も出てきますが、 もし後嵯峨院が水車を造らされるとして、「水車」の前にある「土民に仰せて、」の部分と繋がらなくなりますから、「られ」は尊敬と。)

      しかし………これが微妙な例も……

      同じく、「徒然草 十段 家居のつきづきしく」の中に

      後徳大寺大臣の、寝殿に、鳶ゐさせじとて縄をはられたりけるを

      と言う部分が出てきます。「はられ」の「れ」はいかに?

      単純に考えれば「尊敬」と言う事で済みますが、先ほどの事を考えると「自分で縄を張ったの?」とも読める訳です。
      「れ」に、受け身・可能・自発・尊敬とある中で、「受け身・可能・自発」の3つを当てはめると当てはまらないので、「尊敬」しかとれない訳ですが、
      そういう意味では何となく釈然としない部分ともなってはきます。
      (もちろん、言葉の問題として、より適切な意味を考えると言う事からは矛盾はしないのですが)

      ここでは、あえて後徳大寺左大臣の例を持ってきましたが、基本的に「偉い人は自分で動かない(何もしない)」と言う原則は大部分で機能しますから、 1つの考え方として覚えて頂くと良いかと思います。

      上で、「偉い人は自分で動かない」と言う事を書きましたが、それを派生させたと言うか、具体化させたというかの事として貴族の仕事は「恋愛」「和歌」「楽器」「学問」

      貴族が何もしないのは、社会が貴族中心に安定していたからに他ならない訳ですが(貴族同士の権力闘争と言うのはありますが) 政治の実権も藤原氏(北家)の独壇場になると、ますますその傾向に拍車がかかる事になります。

      その代表例が「源氏物語」と「枕草子」

      もちろん、筆者が女性と言う事からか(特に清少納言はキレイナものだけを書くようなこだわりもあったようですが) あまり、ドロドロとした話は出てきません。(光源氏を巡る政争らしきものはあると言えばありますが)
      結果、やることは「恋愛」がメインのお仕事に。
      これは、古典云々と言うよりは、むしろ社会学的・生物学的な視点に譲った方が分かりやすそうですが、 要は「本能的に子孫を残していく」イコール「貴族の家を残していく」と言う考え方に特化した……とも言えそうです。

      そして、良い人と巡り合うための「和歌」「楽器」の能力の向上へとつながる。
      毎日馬車馬の様に働く現代人の我々からすれば、何とも優雅でうらやましい限りですが、逆に言えば、それしか能力のアピールも無いと言うのは 余りにも窮屈すぎる……と思ったりもする訳です。

      さて、こういった事が反映したものとして、挙げられるのが、やっぱり「敬語」
      「敬語」は非常に古文において重要な位置づけを持ちますが、本動詞の敬語を見ると「召す」「奉る」を始め本人が動く事を表している動詞が非常に少ない事に気が付きます。 (「賜ぶ」や「大殿こもる」や「参る」も当然、本動詞)