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三代随筆(「枕草子」「徒然草」「方丈記」について)


                          三代随筆とは「枕草子」「方丈記」「徒然草」の3つを指す。
                          「枕草子」(まくらのそうし)
                          「方丈記」(ほうじょうき)
                          「徒然草」(つれづれぐさ)




    いわゆる三大随筆と言えば「枕草子」「方丈記」「徒然草」の3つが挙げられます。
    この3つ、最初の「枕草子」は女性である清少納言が書いていますが、残りの2つの「方丈記」「徒然草」は男性が書き、しかも「隠者」と呼ばれる方達でもありました。

    清少納言が中宮定子に宮仕えをするために出仕し、その間の宮中での出来事を描いているのに対して、鴨長明も吉田兼好も元々は宮中なりに出仕して宮仕えをしていたにも関わらず、どちらかと言えばそのことよりも仕事を止めた自由な立場になってからの立ち位置や視点に立って書かれているという点に大きな差が現れてきます。
    そして、特に清少納言の使えた中宮定子の中関白家が藤原道隆の死後、その息子の伊周と、道隆の弟の道長とでの権力争いが激化するなかで衰微していくということもあってか尚更に明るく描ききるということに意識が向けられた感はあります。
    そこに、「枕草子」=感覚的・印象的と呼ばれる作風に繋がり、読む側にとっての清少納言の機智や単純明快さ(中宮定子礼賛)などが浮き彫りになっていると思える訳です。

    他方、鴨長明も吉田兼好も元々は神社関係に属する人達でもあり、清少納言とは違った背景の中で育った上で宮中に出仕をする事になったのは共通の土台ともいえ、宮中とは違った様々な一般の人達を観た上での宮仕えは、清少納言とは違ってやや斜めからの視点となっても致し方ないところでしょう。
    特に、鴨長明の生きた時代は平安末期から鎌倉初期にかけての【貴族社会】から【武家社会】へと変容していく渦中にあたり、丁度末法の世の実現を思わせるような出来事と重なった事(安元の大火、平清盛による福原遷都、養和の大飢饉、元暦の地震)も、長明特有の「厭世観(pessimism)ペシミズム)」をもたらす大きな要素でもあったことはうかがえる。
    (加えて、鴨長明は「保元の乱」の前の年に生まれ、「承久の乱」の5年後に死亡している点も)

    同様に、吉田兼好も鎌倉幕府の崩壊から南北朝の動乱の時代を目の当たりにした人物であるが、鴨長明よりも悟っている感じがあり、長明ほどの「厭世観」はない。
    吉田兼好も鴨長明も、共に著作の作風は「無常観」に分類をされるが、吉田兼好の「徒然草」の方は、王朝文化に対する憧憬の一方で武士社会の質実剛健さをも評価している点からも、鴨長明よりも余裕をもって社会を観ていた事が窺える。
    そういう意味では兼好の方が、【隠者生活】を楽しんでいたとも思えるのである。
    時に、「徒然草」が「有職故実」を含めて日録「教養」に触れ、果ては「建築(風水)」や「博打」の事まで幅広く網羅している点は、彼の豊かな生活の現れであり、その本質は、老荘思想や儒教思想を昇華させた、まさに【勝ち組の兼好】を体現したものが「徒然草」と言うことになるのだと考えておけば良いのではないでしょうか。