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「枕草子」と「源氏物語」其の弐:(清少納言と紫式部)




      一条天皇を中心とする藤原氏のサロンから生み出された「枕草子」と「源氏物語」。

      宮仕えをして傑作をモノにしたという意味では「源氏物語」の作者の紫式部も清少納言と同様の存在でありました。
      紫式部も清少納言と同じく知識・教養に優れた人物であり、幼少期からその片鱗を見せており、漢学者である父親が残念がった程でもありました。
      (当時は「学者」は男性のみが就く仕事とされ、いかに優秀でも紫式部が漢学者になることは出来なかった。同様の話が「枕草子」の【すさまじきもの】にも出てきている。また、後に「源氏物語」を読んだ一条天皇がこの作者は漢籍の素養があると述べたともされている。)

      意外にも、紫式部が「源氏物語」を書き始めたのは結婚後、娘が生まれた後に夫と死別して以降に始まります。
      この作品は好評で、その評判が時の権力者である藤原道長の耳にも届き、道長の側から是非とも娘である中宮定子の許に出仕して欲しいとの話を受けて宮中へ出仕することになります。

      中宮彰子の許へ出仕後は、「紫式部日記」をも書き始め「源氏物語」と共にライフワークとなりました。(この日記の中では中宮定子の出産を始めとして宮中行事の仔細な様や、他の女房に対する批評なども含まれていて当時を知る第一級の資料としての価値を有する。)

      日記の中で、同じ中宮彰子に仕える同僚である和泉式部に対して「和歌の才能はあるが軽薄である」と書いた紫式部ですが、自身もサロンの主である藤原道長に言い寄られるということもあり、その事が源氏物語の中でも影響を及ぼしているとの考え方(「光源氏」は藤原道長をモデルにしたとの説)にも繋がってきます。
      平安時代の男女関係・婚姻関係については現在とは違った一夫多妻制であり、紫式部と藤原道長の関係がどうだったのかについては非難されるべき事では無く、むしろ、その一夫多妻制であったという事が「源氏物語」をより深く理解をする上で重要になるキーワードだとも言えます。



      「源氏物語」の文学史的な意義



      【源氏物語り】は伝奇物語と歌物語を融合させたものと考えられます。

      「伝奇物語」は「竹取物語」や「宇津保物語」「落窪物語」の様な、古くから語り継がれてきた古代の夢や考え方を基にして作られた筋書きを記したものであり、 他方の「歌物語」は「伊勢物語」や「大和物語」の様に、和歌を中心にすえ、その和歌がなぜ作られたのかを記したものであって、「源氏物語」において両者を融合させた上で更なる昇華をさせたものと言う点に文学史的な意義があります。

      「源氏物語」は、紫式部の漢籍他の幅広い知識・教養に裏打ちされた文章であり、宮中での出来事(自身と道長との恋愛も含む)をベース置き、【光源氏】を主人公に恋愛を中心にした種々の人間模様を「物語」という虚構世界(フィクション)において体現させたという点で「枕草子」とは異なっている。
      「恋愛」「男女関係」が中心に据えられているために、当然に、人間の内面を深く考察するという事にも繋がり、心理描写の精緻化と共に、自己の内省や批判といった(後に本居宣長により日本人を特徴付ける意識と考察される)「もののあはれ」を現したものと評される。