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漢文の訓読は古文の読み方を基本においている


    漢字だけが並んでいる漢文に送り仮名を振りなさいとか、これを読みなさいと言う事は漢文読解の重要な到達点の一つでもありましたが、
    そこまで、「漢文」に学習時間を割けない受験生の現状を慮ってか(?)最近ではこの手の問題は一部の国公立の問題を除いてめっきり姿を消しました。

    それを歓迎すべきなのか?それとも憂えるべきか?

    (人間の”教養”や”能力の涵養”と言う視点からは)いささか悩みも無いわけではありませんが、実際に目の前に受験生をして教えている立場としては この手の問題が姿を消している事は歓迎すべき事なのでしょう。
    (※ 漢文の重要性が相対的に低下していると言う事がある)

    さて、この「漢文の読み」と言う問題。これは、最近の学校の授業でも”何でその様に読むのか?”と言う事自体の説明が省略されている場合も多いらしく、 他方、生徒の方も敢えて突っ込む事もなく何となく来ていると言う感じを受けます。

    それこそ、昔の寺子屋よろしく素読(そどく)を読書百万遍として何度も読まされるのであれば、自然と読み方も身につきますが、 今は学校で当てられて漢文を読む事さえ稀である事を考えると、漢文をどの様に読むのか?と言う事自体に深入りするのは避けた方が無難と言う解釈に落ち着いてもいきます。

    ですから、入試問題として漢文の読み方について出題される事は減って当然と。

    しかし、一応ここまで1000年以上も漢文と繋がりのある学問体系(言語体系?)の一つではあるので、何で漢文があんな読み方をするのかを簡単に書いておきましょう。

    何度か触れているように、元々漢文は日本が中国から政治制度や分化を輸入する際に用いた事が端緒であって、 漢字の表意文字としての機能から、中国での発音や読み方が出来なかったとしても、その文字を見れば”意味が分かる”と言う事を最大のメリットにして来たわけです。
    (英語においては、English と言う言葉自体の意味が分からなければ「英語」とは訳せない訳です)
    ですから、日本が894年に遣唐使を停止して国風文化が勃興しても漢文が廃れず残った訳です。

    しかし、この漢文を読む際に、当然、元の中国の読み方とは異なるのは承知な訳ですが、何等かの形で日本人に分かる読み方を作っていかないと結局は中国語をする事と 同じ事になってしまいます。
    そこで、漢字の意味を残しつつ、日本人が読みやすい様に(半ば強引に)漢文に元々の音読みの他に訓読みを加えたりして(ある意味勝手に) 作り変えたのが「漢文訓読」と呼ばれるものです。
    (例えば  縦江東父兄憐而王我 と言う部分において、音読みであれば ジュウコウトウフケイリンオウガ となりますが、実際には  タトヒ コウトウのフケイ アワレみて ワレをオウとすとも と言う具合に音読みと訓読みが混じる訳です)

    これだけを見ると、いかにも身勝手な感じで作文をしている感じですが、これには”一応の約束事”があって、訓読みをしていく際には、 古文の読み方や活用(上一段とか下二段などの)を使って補うと言う事になっていきました。
    (894年以降と言う事で、平安時代であり、当然、古文をベースに考える訳なので、漢文を無理やり古文とくっつけた事自体の矛盾をとやかく言っても仕方がないが、 問題はそれが1000年後の今においてもこの方法で読む必要があるため、ただでさえ「古文」と言う事で今に無い読み方や活用の仕方をしている事を使って、 更に漢文と言うスタイルを訳さないといけないと言う事が、漢文を分かりにくくしている一番の原因。)
    (要するに、漢文は古文が完璧に出来る(使いこなせる)人間の視点で作られていると言う事が漢文を分かりにくくしている根底にある訳です)

    ですから、漢文を学習する際には”ある程度”古文の文法や読み方が出来上がってからでないと何が何だか?と言う事になってしまう事になってしまうのです。

    (そういう意味で、今後「漢文」が入試問題に残っていくのか?は、日本の「国語」や「文化」「歴史」と言う部分において結構なレベルでの話になって行くのでは、と思う次第)

    しかし、だからと言って「漢文」をやらなくて良いと言う訳ではありません。

    我々の先駆者が漢文や漢字を使って外来の技術や文物を日本に合わせる様に努力したと言う事をないがしろには出来ない訳で(?)
    そういう意味でも「受験科目」にある以上は、先人の努力と知恵(強引さ)に敬意を表して漢文に取り組んでもらいたいと思います。