このページを Google Bookmarks に追加

藤井四段の「僥倖」と「望外」


  • 中学生にしてプロ棋士と言う事で、ここの所、注目を集める将棋の藤井四段。

    彼の活躍(偉業)の凄さから、自分の教えている生徒の中にも「将棋をやってみたい」とか「中学生なのに凄い、負けられない」とか

    何やら、若者世代(小学生~高校生)にもの凄く良い影響を与えてくれているのを日々感じつつあるところ

    先日、ネットでうろうろしていたところ、「藤井四段の凄い語彙力」(朝日新聞デジタル)と言うタイトルの記事を目にした。

    なるほど、彼(藤井四段)の強さは、ただ将棋のみに特化しているのでは無くて、

    様々な部分を鍛錬した結果であるのだな(?)と言う事を思う。

    将棋(あるいは囲碁でもチェスでも)が天賦の才に加えて、人並み外れた努力を積まなくては
    その”勝負の世界”で立ち行かないのは想像に難くない。
    そして、それだけでは無くて、その人を支える「運」と言うものもあるだろう。
    (誰よりも実力がある人だが、プロ試験に通らなかったとか)
    (一手一手の運びであるとか)

    そう言った様々な要素が彼を”勝利者”へと導いていく

    「運が良い」「運が悪い」と言うのは、簡単に言えば、簡単に過ぎ去っていく言葉ではあるが、
    実際に何もしないで「運が良い」「運が悪い」と言うのは、ただの”偶然”と言う事であろう。

    激しい勝負の世界で連勝を続けると言う事に”偶然”と言う事を言うのは不適切であろう、逆に”当然”と言う事を言うのもまた不適切であろう。

    だからこそ、彼(藤井四段)は「僥倖」と言う言葉を使ったのだろう。
    (中学生の彼が使ったから驚くのではない)
    勝負を続けている彼が使うから、言葉に重みと想いを感じ取る事が出来るのである。

    また、「望外」と言う言葉も取り上げられていたが、これもまた同じであろう。

    極めて個人的な意見ではるが、勝利を望まない勝負師がいるだろうか?

    私は、それはいないと思う。

    当然、藤井四段も何も考えずに勝負に臨む事はないのだと思う。

    しかし、自分を遙かに凌駕する先人達に切り込むのである。

    (彼が如何に天才であったとしても)それを確実に「勝つ」と言えるだろうか?

    もし、彼が全てを見通す全知全能の者であるならば、敢えて「望外」や「僥倖」などと言う言葉を遣う必要は無い筈であろう。

    彼をして、様々に鬩ぎ合う中で勝利への一手を積み上げていく。

    その一手一手を読み切ったとしても、それが勝利と言う形になるかどうかは最後まで判らない。

    そこには、「勝つ事を分かって」勝負しているのではなく、「一手一手を積み上げた結果が勝ちに繋がったこと」を誰よりも強く認識しているに違いないと思うのである。

    まさに、彼は”己の手”で勝負をしたからこそ「僥倖」と言う字を使ったのであろう。

    その言葉選びのセンスと、その言葉の蓄積に彼の非凡なる所を感じると共に、いかに努力をしているのかを(我々の様な老体は)察するのである。

    人間は幾つもの才を持って生まれてくる。要は、それを活かすかどうかの意志であろう。
    それを、若くして開花させた藤井四段に是非このまま其の能力(努力すると言う能力も含めて)を維持発展させていってほしいものである。

    人は模範が無くて、自然に整うと言う事は難しいだろう。

    同じように、”何もない所”からは何も生まれない。

    「知識の無い所」からは何をどう考えても何も生まれないのである。

    だからこそ、「僥倖」と言う言葉に彼が将棋以外の部分でも非凡なストックを心がけている事(すなわち、様々な刺激を以て脳を活性化させている事)を知るのである。

    「望外」「僥倖」は、ただ難しい漢字を使ったと言う意味だけで捉えるものでは無い

    彼が、それを使いこなせる程に努力家であると言う事、そして彼が人間の可能性を信じていると言う事を知るべきなのである。